徳之島へ引っ越して、三度目の梅雨真っただ中。一年目は雨はそれほどでもなかったが、連日湿度90%超えで、あらゆる物がカビに覆われ、神戸から持ってきたバッグやベルトや靴などの革製品は半分位処分した。二年目は空梅雨で湿度も大したことなく、覚悟してたカビもほぼ発生しなかった。三年目の今年は連日一時間に10mmを超えるような豪雨と90%超えの湿度のダブルパンチ。油断すると一気に増えるカビに対し、アルコール&革保護クリームで格闘の毎日。しかも雨で海にも行けず籠りっぱなし。アンドレ・ジイドは「心というものは使わずにいると干からびるものである。」と言ったけど、僕は言いたい「徳之島では使っても使わなくても心もカビそう。。」仕方がないので心のカビもアルコールで撃退。ビールとワインの消費量が増えて仕方ありませぬ。

ジイドといえばもう一つ我々が忘れてはならない言葉がある。「懐疑は叡智の始めかもしれない。しかし叡智の始まるところに芸術は終わるのだ。」これって真理ですよね。元々自分の意図や要望を伝えるために発達してきたのが言葉なのに、表現したものの全てが伝わってしまえば、詩は詩でなくなってしまう。十四行詩も日本の俳句や短歌も受け手によって時代によって捉え方が何千通り何万通りとあるから、いつまでも風化せず詩として存在し続けるのだ。極端な言い方をすれば伝えるための素材を並べて伝わり切らない範囲で自己表現する。そんな矛盾を抱えた詩・・もはや詩人が絶滅危惧種なのも頷けます。田村隆一の「帰途」を読んだ時に、その詩の主旨とは別に詩人の心の叫びの様なものを感じてやるせない気がしました。まあ僕が勝手にそんな気になっただけなんだけどね。。

広告のコピーライティングはこれの真逆です。主観的であれ客観的であれ、写実的表現であれ象徴的表現であれ、伝える事、伝わる事が目的。そして直接にせよ間接にせよ行動と利益に繋がる事。基本的需要段階の商品やサービスならその新規性や内容をしっかり伝える事が目的で、選択的需要段階ならば数ある中から、その商品やサービスを選ぶべき理由が伝わらなければなりません。詩人を気取ったような寒~~~いコピーの某焼酎メーカーのCMが結構ロングランで続いてますが、実はアレ、しっかり伝えたい事は伝えてるんですよね。今度、心がカビそうになった時は焼酎のお湯割りで撃退したいと思います。
ん?何が言いたいか全然伝わらない?それはこれがコピーじゃなくって只のブログだからです(笑)