オリンピックが始まりました。直接観戦できないのは残念ですが、ウェブ配信などで選手たちの笑顔を見てると中止にならずに良かったと心から思います。楽しんでほしいですね。
さて熱戦熱波の大和とは裏腹に、我らが徳之島は一週間居座り続けた台風6号のお陰で釣りにも行けず、物資も入ってこないのでスーパーの棚も空っぽ。幸い停電にはなっていないので、釣って冷凍していた魚とランチョンミートの缶詰と友達にもらった野菜で何とか食い繋いでます。
この一週間で、きっと500gは痩せたはず。
腹が減ると小難しい本を読みたくなるようで、先日書家の紫蘭さんがFBで紹介されてた上田敏の「海潮音」を寝物語に読んでたのですが、何だろう、、改めて詩の訳ってすごく難しいなぁっていうのが素直な感想です。
「海潮音」は高踏派から象徴派までのフランス詩を中心に訳されたものなのですが、特に前半の韻文詩を日本の七五調で訳されているのに物凄く違和感がある。これは日頃耳にしている言葉の変化による我々現代人側の影響が大きいのでしょうけれど、例えばボードレールの「悪の華」にも収録されている「人と海」という詩は、個人的には鈴木信太郎の訳の方がしっくり腑に落ちます。
例えば原文(一部抜粋)
「Homme libre, toujours tu cheriras la mer!
La mer est ton miroir, tu contemples ton ame
Dans le deroulement infini de sa lame
Et ton esprit n’est pas un gouffre moins amer.」
の部分に関して、
上田敏の訳では
「こヽろ自由(まま)なる人間は、とはに賞(め)づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、
水や天(そら)なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海(ふかうみ)の潮の苦味も世といづれ。」
(人と海.一部抜粋/海潮音/上田敏訳詩集/新潮文庫より引用)
対して、鈴木信太郎の訳は
「自由の人よ、お前は海を 永久に愛するだらう。
海は お前の鏡。お前は自分の靈魂(たましひ)を、大濤(おほなみ)の巻き返しては
繰り展(ひろ)げる うねりの無限の反復に じつと眺める。
そしてお前の精神も 海に劣らぬ苦い深淵(ふち)だ。」
(人と海.一部抜粋/ボオドレール 悪の華/鈴木信太郎 訳/岩波文庫より引用)
※現代漢字・旧漢字は引用元の表記に沿ってますが、PCのフォント環境により変わっている可能性があります。
となります。
この部分に限らず一つ一つの言葉は上田敏の訳の方が言葉の選択が美しく、しかも原文の様な韻ではありませんがリズムもある。でも何だろう、七五調のリズムのせいでボードレールの個性である毒の様な部分が打ち消されてしまっている気がしてなりません。訳詩ですので尚更ですが、言葉の選択は字義自体が持つ伝達力で読者に伝えるという意味ではとても重要なのは分かり切ったことです。ただそれ以上に詩の持つ空気感というか文章全体から伝わってくる印象を伝えることも無くてはならない要素です。
詩には動かせない姿があります。それを別の言語に置き換えて文化も風習も違う人に訳すのですから、そりゃ難しいですよね。どちらが優れているという事ではなく、原文から感じたものが訳者の二人で違うという事なのでしょう。そしてそれぞれのオーディエンスにも100年以上の開きがある。鈴木信太郎の「悪の華」の初版からはまだ60年程しか経ってませんので単に感覚が近いというだけかもしれませんし、また「人と海」は韻文ですが、ボードレール=散文詩というイメージが僕のイメージに焼き付いてしまってるのかもしれない。ただ文学に関して何の知識もない僕が純粋にそう感じただけのこと。。
古典を読むたびに、繰り返し読んでも全く飽きない文章の持つ力強さや奥深さに驚きます。
ネット広告の「〇〇で炎上中」とか、「〇〇過ぎて△△をやめる人続出」ってキャッチコピーを見るたびに、たぶんほとんどの消費者が飽きてる事にもめげずに繰り返し続ける力強さにも驚きますが(^^;)
あ、悪口じゃないですよ。一応広告手法の一つではありますから。
そしてほんとに触れたかったヴェルレーヌの詩にはたどり着けないまま文字数が来てしまったので、それはまたの機会に。
え?要らん?ですよね。。