予め言っておきますが、デザイン全く関係ありません(^^;)
最近AIがやたらと取り上げられますので何となく。。
AIロボットは、カメラやセンサーを通して外界から受けた刺激に対し、自らの体に許された選択肢の中から最適と思われる行動を選択実行する。結果をまたカメラやセンサーで受容し、次回の行動で更に最適な行動を選択できるよう学習を重ねる。ただそれだけ・・だから、人間の方が尊いんだ、という人がいます。
え~~っと、そこは人間と同じですよね?(^^;)
人間は目・耳・鼻・皮膚などを通して、刺激を受容します。それを微弱な電気信号に変え、神経を経て脊髄や脳などの中枢に送り、取るべき行動が確定しているものは脊髄反射で即行動に転嫁し、そうでないものは求心性の神経から脳に送られます。脳では記憶から呼び起こされた無数の選択肢を一気に下書し、ベターなものを選び遠心性の神経に選択した行動を伝達する。ロボットと何一つ違う所はありません。
当たり前ですよね。神が自分達を見本に人間を作ったように、人間は自分達を見本にロボットを作ったんですから。
アメーバは、その体表面に触れた刺激に対し、収縮するという行動を実行します。彼に与えられた選択肢はその一択だからです。もっと極端なことをいえば、桶が風に飛ばされるのは、彼にはただ一つの選択肢すら与えられておらず、風の強さが自身の重量と地面の摩擦を超えれば飛ばされるしかないためです。
人間もAIロボットも、アメーバや桶と同じ。外界から受けた刺激に対して行動を返すという点では、何も変わりません。視覚や聴覚は外界からの刺激を距離をもって受け取れる為に、行動までの時間的余裕があり、選択肢が増えただけです。また距離がある事で繰り延べられたり、後天的に受けた新たな刺激により、都度選択が書き換えられるだけです。脳はただ自身の行動を選択をしているだけで、外界から得たものに対し、何一つ付加はしません。
じゃあ悲しみや愛しさといった感情は何なのでしょう?僕は種を残す選択をするための先天的な本能だと思っています。だから後天的な記憶より優先し、脳が反応するより先に反射的に心臓の鼓動の早まりや涙の様な身体反応が現れるのだと思います。
白鳥春彦さんの「超訳偉人の言葉」に釈迦の次のような言葉があります。
「悲しみがあるのではない。これは自分の物と執着したものが朽ちるから悲しむのだ。持つとは何か。所有とは何か。それは本当におまえの物であったためしがあったのか。お前は本当に持っていたのか。持っていたのに、変わり、ついには朽ち果てたではないか。そのことを悲しむのか。お前さえ執着しなければ、その悲しみはかなったのに。」
仏の領域に解脱したり神の様に永遠の命があれば、種を残すことに執着する必要はないのでしょう。でも僕たち人間は悲しみや愛しさといった執着があるからこそ、子供達を守るためなら命を投げ出す選択ができる。寿命があるからこそ感情は必要だったんだと思います。種を残す必要がないという点ではロボットも同じですよね。彼らには悲しみも執着も無いでしょう。人類が作ったのは、もしかしたら人類を模したロボットではなく神だったのかもしれない。そんなSF映画みたいなことにならなければいいですが・・・。風が吹けば儲かる桶を作ってる方が、なんぼか平和だな~なんて思う今日この頃です。